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錦糸町の歴史

江戸時代から交通の要衝として、商業や製造業が発展した錦糸町エリアは、 両国や亀戸に隣接し、下町として発展、その歴史と伝統は現代にも受け継がれています。そして現在でも、下町のあたたかさや雰囲気など、昔ながらの錦糸町の良さが色濃く残っています。

掘割を中心に江戸時代から発展した錦糸町
江戸時代は錦糸町は本所の一部で、隅田川と荒川にはさまれたデルタ地帯であるこのあたりは、一体が湿地帯でした。
江戸時代に掘割が整備され、安政2年(1854年)、大横川、横十間川、堅川、北十間川によって区切られた現在の骨格ができ上がりました。
掘割による水上交通の発達で、このあたりの商業や産業が発展しました。
とくに、江戸に不足気味だった材木を運ぶための重要な手段で、材木問屋などが発展しました。

錦糸町の名前の由来
錦糸町の地名の由来は、はっきりとはわかっていませんが、掘割にちなんだものが多く、錦糸町駅北側線路沿いの大横川から横十間川にあった岸堀がなまり錦糸堀になったから、琴糸をこのあたりでつくっていたから、あるいは、堀に朝日夕日が錦糸のようにきらめいていたからとも言われています。
「錦糸堀」はJR錦糸町駅の北口の北斎通りの所にあり、両国から東西に続く「南割下水」という掘割の大横川から東側の部分でした。
江戸末期には「小梅代地町、南割下水錦糸堀」と呼ばれており、江戸末期から明治にかけて活躍した河竹黙阿弥の作になる歌舞伎の「孝女お竹」(初演1865年)に「錦糸堀」を舞台にした一節があります。
これが江戸時代の文献に登場する「錦糸堀」の唯一のもので、河竹黙阿弥こそ「錦糸町の祖」ということになります。

鉄道によって近代化が進んだ錦糸町
明治になると、明治9年(1878年)には、現在の両国高校あたりに新燧社が設立され、ここで最初の国産マッチが本格的に製造されるようになりました。
明治23年には、錦糸地区にわが国初めての車両工場が建設され、東京砲兵工廠の工場を借りて、鉄道の創業期に向けて鉄道車両が製造されました。
明治26年になると前年に本所石原町で工場を建設した服部金太郎が、同地では動力使用許可が下りないことから太平町に工場を移転するなど、工場地として発展します。
この工場は後の服部時計店精工舎であり、明治28年に初めて懐中時計の製造に成功しています。
この地が発展するきっかけになったのは、なんといっても鉄道で、明治27年には総武鉄道株式会社によって本所から市川・佐倉間の鉄道が開設され、本所停車場(現在の錦糸町駅)が置かれました。
さらに明治末期から昭和30年代にかけては都電が発達し、築地や日本橋と結ばれ、庶民の足として親しまれました。

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