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【錦糸町】 日本の時計工業の歴史が刻まれた地

江戸時代、亀戸天神の門前町として栄えた錦糸町は、明治以降縦横に水路が張りめぐらされた水運の街 としての利を活かし、様々な工場が立ち並ぶ産業の街として 栄えました。
「世界のSEIKO」として知られるセイコーウォッチ (当時の社名は「精工舎」)が、このエリアに工場をつくったのは、 明治26年。当初は数十名だった工員も2年後には170名以上に急拡大、最盛期には 従業員約3,000人を擁する、当時としては世界最大級の大工場にまで発展しました。 明治の時代から今日まで、時計製造業のリーディングカンパニーとして最先端テクノロジーを常に錦糸町のこの地から生み出してきました。
まさにこの地は、日本の時計工業の歴史が刻まれた場所といっても過言ではありません。
しかし都市化の進展に伴い都心でモノをつくる時代に大きな変化が訪れ、精工舎工場も平成9年に閉鎖。東京建物は、精工舎から受け継いだこの土地を次の100年を見据えながら新しい地域の活力となるべくこの土地の再生を図りました。
olinasは、精工舎によって刻まれた土地の記憶を継承するとともに、これからこの地に新しい歴史を刻んでいきます。

旧精工舎
広大な敷地と遠くからでもよく見える大きな煙突がシンボルでした。
<土地の記憶>を象徴するシンボル時計
olinasの正面エントランス付近には、歴史を語り継ぐために、モダンなデザインのシンボル時計が設置されています。
デザインは変わっても、訪れる人に時を告げる機能は昔と変わりません。

 

錦糸町の歴史

江戸時代から交通の要衝として、商業や製造業が発展した錦糸町エリアは、 両国や亀戸に隣接し、下町として発展、その歴史と伝統は現代にも受け継がれています。そして現在でも、下町のあたたかさや雰囲気など、昔ながらの錦糸町の良さが色濃く残っています。

掘割を中心に江戸時代から発展した錦糸町
江戸時代は錦糸町は本所の一部で、隅田川と荒川にはさまれたデルタ地帯であるこのあたりは、一体が湿地帯でした。
江戸時代に掘割が整備され、安政2年(1854年)、大横川、横十間川、堅川、北十間川によって区切られた現在の骨格ができ上がりました。
掘割による水上交通の発達で、このあたりの商業や産業が発展しました。
とくに、江戸に不足気味だった材木を運ぶための重要な手段で、材木問屋などが発展しました。

錦糸町の名前の由来
錦糸町の地名の由来は、はっきりとはわかっていませんが、掘割にちなんだものが多く、錦糸町駅北側線路沿いの大横川から横十間川にあった岸堀がなまり錦糸堀になったから、琴糸をこのあたりでつくっていたから、あるいは、堀に朝日夕日が錦糸のようにきらめいていたからとも言われています。
「錦糸堀」はJR錦糸町駅の北口の北斎通りの所にあり、両国から東西に続く「南割下水」という掘割の大横川から東側の部分でした。
江戸末期には「小梅代地町、南割下水錦糸堀」と呼ばれており、江戸末期から明治にかけて活躍した河竹黙阿弥の作になる歌舞伎の「孝女お竹」(初演1865年)に「錦糸堀」を舞台にした一節があります。
これが江戸時代の文献に登場する「錦糸堀」の唯一のもので、河竹黙阿弥こそ「錦糸町の祖」ということになります。

鉄道によって近代化が進んだ錦糸町
明治になると、明治9年(1878年)には、現在の両国高校あたりに新燧社が設立され、ここで最初の国産マッチが本格的に製造されるようになりました。
明治23年には、錦糸地区にわが国初めての車両工場が建設され、東京砲兵工廠の工場を借りて、鉄道の創業期に向けて鉄道車両が製造されました。
明治26年になると前年に本所石原町で工場を建設した服部金太郎が、同地では動力使用許可が下りないことから太平町に工場を移転するなど、工場地として発展します。
この工場は後の服部時計店精工舎であり、明治28年に初めて懐中時計の製造に成功しています。
この地が発展するきっかけになったのは、なんといっても鉄道で、明治27年には総武鉄道株式会社によって本所から市川・佐倉間の鉄道が開設され、本所停車場(現在の錦糸町駅)が置かれました。
さらに明治末期から昭和30年代にかけては都電が発達し、築地や日本橋と結ばれ、庶民の足として親しまれました。

錦糸町の現在

都心近く、交通の要所として、商圏と住圏が接近する街
近代の錦糸町の発展は、鉄道の発展とともに進んできました。現在、東西に伸びる
総武本線に対して通路が南北方向に伸びており、南口は東京都の東側の歓楽街として栄えています。
北口には地域住民のいこいの場である錦糸公園が広がり、南北方向に走る四ツ目通りの下には東京メトロ半蔵門線が走っています。

錦糸町鉄道年表

1894年 (明治27年) 本所駅として開業。
1915年 (大正4年) 錦糸町駅に改称。
1972年 (昭和47年) 総武快速線東京~錦糸町駅開業に伴い、総武緩行線と総武快速線の乗換駅となる
2003年 (平成15年) 半蔵門線が開業。
2004年 (平成16年) 営団地下鉄民営化。東京地下鉄(東京メトロ)発足。

 

都心へのアクセス
JR東京駅まで直通で9分、新宿・品川へもダイレクトに結びます。
2003年3月には営団地下鉄半蔵門線が延長・開通(水天宮前-押上間)し、olinasから徒歩3分のところに新駅「錦糸町駅」が設置されました。
これにより大手町駅まで直通12分、青山・渋谷方面のほか、都内の地下鉄ネットワークとアクセスしやすく、ますます交通利便性が向上しています。

東の副都心として、変貌を遂げる錦糸町
江戸時代の都市計画によって形成された都市の骨格の上に、住・工の機能が発達し、また、千葉と東京を結ぶターミナルとしても発達した錦糸町地域は、ここにきて、大きな変貌を遂げようとしています。
都心に近いにもかかわらず、伝統的な独自性を保っていることなどから、東京都の「副都心整備計画」に組み入れられました。
副都心は、業務、商業だけでなく、文化、娯楽、居住などの多様な機能を備えた広域的な拠点で、それぞれの副都心の地域の特性を生かしながら、個性ある活力あふれる街づくりを目指しています。
同計画では、「錦糸町・亀戸副都心」は、東京を囲む7つ副都心の一つで、既存の商業や娯楽、産業を生かすとともに、半蔵門線の導入により、新たな業務・文化などの機能を発展させようとするものです。
精工舎の跡地に建設されたolinasも、職・住・遊の機能融合型の複合開発であり、まさに副都心整備計画を具現化したプロジェクトと言えるでしょう。
そのほか、北斎通りなどのシンボルロードや、河川・公園などの整備も進められて、にぎわいある「産業・文化・娯楽拠点として発展する街」に生まれ変わっています。

江戸時代の錦糸町界隈

江戸時代からの歴史ある街として発展した錦糸町には、 今もその歴史を彷彿とさせる旧跡や神社仏閣が多く残されており、それらから錦糸町の歴史を紐解くことができます。

武家屋敷として発展した錦糸町
江戸時代に入り、湿地帯であったこのあたりの開発が始まったのは明暦3年(1657年)の大火、振袖火事がきっかけでした。
この火事で江戸はほぼ全滅、10万人の死者が出ました。
そのため幕府は防火対策中心の都市復興に着手し、万治2年(1659年)に墨田川に両国橋をかけ、本所に武家屋敷を移転させました。
そして本所奉行所を中心に、堅川、大横川、南北割下水の開さくや区画整理を進めて武家屋敷中心の市街に生まれ変わりました。
現在のJR錦糸町駅の南側あたりに出羽庄内城主の坂井家屋敷、北側には奥州弘前城主の津軽越中守下屋敷などが位置し、多くの武家屋敷が並び、発展しました。
また、従来が湿地帯であったことから米の生産にも適しており、江戸に向けての米の産地としても栄えました。

「鬼平」こと長谷川平蔵が活躍した町
江戸時代、徳川幕府は凶悪な賊の群れを容赦なく取り締まるために火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)という特別警察を設けていました。
独自の機動性を与えられたこの火付盗賊改方の長官こそ、池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」の主人公である長谷川平蔵です。
延享3 (1746)年、平蔵は港区赤坂6丁目に生まれ、19歳のとき、父とともに本所三ツ目(現・都営地下鉄新宿線「菊川」)に移り住みました。
29歳で書院番士になり、39歳で最高位の御徒頭に出世しました。
天明7年(1787年)、平蔵42歳の5月、江戸で起こった打ちこわしの暴動を、先手組と与力75騎、同心300名を率いて鎮圧しました。
この手腕が時の老中・松平定信の目に留まり、火付盗賊改に任ぜられ、その後火付盗賊改長官になりました。
平蔵は歴代の火付盗賊改長官とは異なり、無用な拷問を避け、自白によって罪を認めさせました。
また、若い頃から独自に培ってきた情報網を使い迅速な逮捕で市中の評判となりました。
神稲小僧や妖盗葵小僧の逮捕から、人足寄場の設置と歴史に名を刻んでいます。
その活躍の舞台が錦糸町界隈で、小説の舞台ともなっています。

亀戸天神の門前町として栄えた町
亀戸天神は、寛文2年(1662年)、菅原大鳥居信祐公が九州の太宰府より勧請され、江戸庶民信仰の本源として関東天神信仰の中枢として、参拝者でにぎわいました。現在でも藤棚が有名で、四季問わず観光客が絶えません。
亀戸天神にほど近い江戸時代の本所界隈は亀戸天神の門前町としても栄え、参拝者相手の茶屋や商店が軒を並べていました。

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